開物叢説 石鹸

日本初の石けん製造技術書「開物叢説 石鹸」のデジタル文書化と現代語訳を行っています

02. 石けんの起源

[原著]

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[文書化]

石鹸起源[オコリ]

石鹸の発明、其の来ること、既に舊[ヒサ]し。盖{けだ}し、衣服を初めて裁制[タチコシラエ]せしより甚だ後{おく}れざる可し。然れども真好[ホントウニヨキ]石鹸の製法、完備[デキアガリ]に至りしことは、人功[シゴトノ]漸く精[テギワ]を極むるの後に在るが如し。故に其の創製[テハジメ]の時世は即ち確定[シッカリ]すべからざるのみ。洒布[セイプ]の名称[トナエ]或いは独逸[ドイツ]の古言、洒百[セーペ]の転語[ウツリコトバ]なりと云う。然れども此の名、既に赫蒲楼[ヘブロウ]人(赫蒲楼は上古の国名、其の語言岐分して今の西洋諸国語の宗源となれり)。謝列漠[セレミヤス]氏の書中に創[ハジメテ]見[ミアタル]せり。布栗紐[プリニウス](往昔{おうせき}化学家)も亦、此を徴[メアテ]せり。而して呀李{訳注:原著は口偏に李}越爾[カルリエルス]氏を推して其の鼻祖[センゾ]と云えり。呀氏[カルリエルス]は石鹸を製するに木灰[キノハイ]と牛脂[ウシノアブラ]とを用いたり。古の羅馬人、蓋{けだ}し其の製法を秘[カク]して普[アマネ]く伝播[ヒロメ]せず、其の証[ショウ]覈実[アキラカ]なり。邦貝以[ポンペイヤ]府は紀元後第七十九年(景行天皇の三十年)、威蘇威[フェシュフィウス]山の地震に遇いて、噴出する刺華[ラフワ]土の底に埋没[ウズモル]せり(威蘇威山は伊太里国内の火山にして、其の噴出の為に近隣諸邦、屡々害を被ることあり)。然るに後来、其の旧墟を堀りて、石鹸匠[サイク]の器什[ウツワ]、及び一鍋の石鹸を得たり。此の品、実に油と滷塩[ロエン、アク]とを以て製する者に係[カカ]る。然れば、今を距[サ]ること一千七百余年の前、既に石鹸の製法[セイシカタ]完備[そなわる]せしを徴[チョウ]するに足れり。


[現代語訳]

石けんの起源

石けんが発明されてからだいぶ時が経ってしまった。思うに、衣服を裁断して作るようになってから、ずっと後のことのはずだ。そうであっても、良好な石けんの製造法が完成したのは、作業の手際が次第に最良となっていったのと同様だろう。従って、その(訳注:石けんの)創り出された時期をはっきりさせることはできない。洒布(ソープ?)という名前はもしかしたらドイツの古語である洒百(セーペ)が転じた言葉と云われているが、その名前は既にヘブライ人(ヘブライは古代の国の名前で、その言語は枝分かれした今の西洋諸国の言語のおおもとになっている)の謝列漠:セレミヤスの書物の中に、初めて見られる。プリニウス(過去の化学者)もまた、これ(訳注:古代の石鹸に関するエピソード)を収集していた。そして、呀李越爾(カルリエルス)氏が石けんの元祖と推定している。カルリエルス氏は、石けんを木灰と牛脂とを使用していた。古代のローマ人は、どうやら石けんの製造法を秘密にして、公開しておらず、そのことは確実である。都市ポンペイは紀元七十九年(景行天皇の三十年)、ベスビオス山の噴火と地震が起こって、噴出した火山灰に埋まってしまった(ベスビオス山はイタリア国の火山で、その噴火によって周辺諸国がしばしば被害を被っている)。その後、廃墟が発掘されて、石けん製造用の器具や石けんが得られた。この品は、油とアルカリで製造されたものと考えられるので、今から千七百年以上も前に、既に石けんの製造法は完成していたことを明らかにしている。


[注釈]

第2章「石けんの起源」では、石けんの発祥について記載している。

A.ヘブライ人のセレミヤスの書物に記載された石けんの記述が最も古い
B.プリニウスが古代の石けんに関するエピソードを収集していた
C.プリニウスはカルリエルスを元祖と推定し、カルリエルスは木灰と牛脂で石けんを作っていた
D.ベスビオス火山の噴火で埋まったポンペイの遺跡には石けんが見つかり、その当時に石けんの製造法は完成していた


A.ヘブライ人のセレミヤスの書物に石けんについて記述されていた
旧約聖書エレミヤ書に書かれた予言者のエレミヤのことと思われる。
・同様の内容が、「花王石鹸五十年史」の「第一章 産業革命以前の石鹸業、第一節 古代における石鹸」に、記載されている1) 。

  「石鹸」の世界史は、少なくとも『旧約聖書』にまで遡るのが、普通である。
  それは、かのマルティン・ルッターが、これをドイツ訳するに当たり、
  ヘブライ原典におけるボリート(borit)をザイフェ(Seife - 石鹸)と云うドイツ語をもって訳出したのによるものである

 *1)小林良正, 服部之, 「花王石鹸五十年史(復刻版)」, 花王石鹸株式会社発行, p1(1978:原書昭和十五年) 

B.プリニウスは石けんに関するエピソードを収集していた
・(大)プリニウスが著した「博物学」に石けんの記載があることが、
 「花王石鹸五十年史(復刻版)」の「第一章 産業革命以前の石鹸業、第一節 古代における石鹸」に書かれている2)。

  西暦紀元一世紀随一の博学者大プリニウスは、丁度ベスビオ山の大噴火に際して、
  たまたま同山上にあり、貴き犠牲となった人であるが、
  その名著『博物学』第二十八篇において「石鹸」(sapo)に言及し、
  それが、頭髪に赤い光沢(つや)を与えるために、
  ガリア人によって発明されたものであること、
  獣脂と灰とから製出されるものであるが、
  特に山羊の脂肪と山毛欅(ブナ)の灰とから製出するものを、最上とすること、
  固形と液状との二種類があり、そしてこの二種類とも、ゲルマニアにあっては、
  婦人よりも、むしろ男子によって愛好されていること等を述べている。
  (注:「博物学」を著したプリニウスを「大プリニウス」、その甥のプリニウスを「小プリニウス」と呼ぶ)

 *2)小林良正, 服部之, 「花王石鹸五十年史(復刻版)」, 花王石鹸株式会社発行, p5(1978:原書昭和十五年)

C.プリニウスはカルリエルスを元祖と推定
・カルリエルス氏が誰かは不明だが、大プリニウスが著した「博物学」中に記載されていると考えられる。